つれづれ帖033 2021/10/07

蹴轆轤について

蹴轆轤ということで蹴って作るということに注目しがちなんですが、やはり作るのは手なので手の使い方が大事なわけです。

成井さんに習った手の使い方はやはり独特で、それまでほとんど見たこともないやり方だったのです。

土を揉むこと、蹴轆轤を蹴ることにある程度慣れると、形にすることを少しずつ習います。

小さいものから順番にやっていくわけですが、「形」としてではなく、手の使い方を一つずつ習っていきます。

まず、左手の親指の使い方、右手の親指、左手の人差し指、中指、右手の各指、と行った具合です。

それぞれの指に違った役割があるのです。

単純に挟んで薄く伸ばせば良いというのではなくて、それぞれの指を押したり引いたりしながら粘土を動かして結果として伸びていくという感覚です。

「伸ばす」というよりは、土を内側から動かして形が変わっていくということです。

もう一つは、コテの使い方を覚えていきます。小さいものから少しずつ大きいものに。

そして電動のロクロだと、土が動いていなくても回転の力で土の表面だけを扱って形にできてしまうということがあります。

特に習い初めのうちはそういうことが起こりがちだと思います。それで、習うときは、回転の力に頼らずに粘土を内側から動かすという感覚を掴むために蹴轆轤の方がいいのだと思います。

そういう技術に出会えて、自分は本当に幸運だったと思います。

本当に面白いと思えること、進むべき道というか、ああ、面白いなあと思いながら一つ一つ器が生まれていく。

そういう技術を次の世代に伝えていきたいと思っています。

焼き物を作る過程の中でロクロで整形するという過程はほんの一部で、それ以外の仕事がとても多いです。独立してしばらくは全部を一人でやっていました。

蹴轆轤を回している時が一番好きだったので、ロクロ以外の仕事は人に任せて、自分はずっとロクロをやっていられたらいいなあと思っていたことがありました。

そして中でも茶碗が好きだったので、ずっと茶碗を引いていられたらいいなと思っていました。

何も考えず、ただひたすらご飯茶碗だけをずっと作り続けていたれたらなんてシンプルな人生だろうと。

何も考えなくてもいい人生がいい人生ではないとは思いますが。特にコロナになってからいろんなことを考えるようになったし、自分の子供たちにも考えて欲しいと思っています。

豊かな自然があり、豊かな文化があり、豊かな心を持つ日本人として、真実を見極める目を持って、豊かな国を引き継いで行って欲しいです。

息子や娘に焼き物屋を継いで欲しいとは思いませんが、豊かな日本を引き継ぎ、引き渡していかなければいけないと心から思います。

震災を機にスタッフを雇うようになり、少しずつ一人また一人と増えて、気がついたら茶碗だけ引いていればいいような状況にだいぶ近づいています。

熟練の技、職人技というものに憧れる気持ちがあって、それは単純に上手いとか早いとかではなく、感じのいいロクロが引けたらいいなと思っています。

なんでもないご飯茶碗なんだけど、温かみとか、柔らかさとか、土から生まれ出てきたような生命感というか、機械では作れないものを大切にできたらいいと思います。

そういうものが生まれてくるのです。問題はそれを消さないことです。ついつい余計な手を加えてしまいがちです。